新入社員日記

人生山あり谷あり。新入社員の生活奮闘記。

山の辺の道~明日香村~高野山 2019年2月19日~22日

1日目
朝4時15分起床。母に稲毛駅まで車で送ってもらう。稲毛から総武線快速で東京駅へ。6時半発の新幹線のぞみで京都へ向かう。

9時06分発の近鉄京都線急行で天理方面へ向かう。平端で近鉄天理線に乗り換え。10時13分天理着。

天理駅で降りると、雨が本降りになっている。傘をさして天理教本部の方へ歩き出す。持ち金が足りるか不安になり、途中の郵便局で2万円をおろす。

天理教の病院も瓦葺のような壮大な建物である。この辺一帯が天理教団の施設群であるようだ。歩いている人すべてが天理教の信者に見える。黒い法被を着てお参りに来ている人もいる。

天理教の本殿には、1、2人ほどがお参りしているだけだ。一面の玉砂利を踏みしめて、本殿の正面へ行く。手洗い所の下で雨宿りをしながら、メガネドラッグからの電話に折り返す。眼鏡の引き取りについての連絡であった。

本殿からまっすぐに歩いていくと、天理大学の方へ来てしまい、道に迷ったと気付く。仕方なく本殿前へ引き返し、スマホのマップでようやく山野辺の道の起点の印のところまでたどり着く。歩道の上に山野辺の道と書いたプレートがはってある。雨のせいか、歩いている人はほどんどいない。しばらく天理教の詰め所が延々と続く。石上神宮へ向かう道導のところから、畑というか野原が広がってくる。坂道が始まる。雨が小降りになっていたので、傘をたたんでしまう。眼鏡に雨水がつくと前が見えないので、帽子をかぶっている。

11時16分、石上神宮着。鳥居を抜けると鶏がたくさん放し飼いになっていて、雄たけびを上げているのもいる。真っ白なのと茶色が混ざったのとがいて、それぞれつがいで飼われているようだ。朱と緑の本堂が美しい。山野辺の道の道しるべを辿っていくと、奈良の弘仁寺の方面に続いているようだ。これでは反対方向なので、急いで引き返す。さっき本堂でお参りをしていた男女のカップルの男性の方が話しかけてきた。

「山野辺の道ですか。」

「そうです。」

「あいにくの天気ですね。雨やなかったらよかったのに。」

「本当にそうですね。でも、雰囲気だけは楽しめますよ。」

男性は女性の方を向いて、

「日本で一番古い道やで。ほんまやって。すごいよなあ。」

私の方を向いて、じゃあ、という感じに手を挙げたので、私も会釈をして、反対側の道へ急いだ。桜井の宿に16時にチェックインする予定なので、急がなければならない。さっき通り抜けてきた鳥居を通って、山野辺の道の桜井方面に復帰する。

11時42分、芭蕉句碑着。「うち山やとざましらずのはなざかり」。内山永久寺に参詣したときの桜の美しさを詠んだものらしい。山野辺の道にはだれもいない。春になると、本当にひっそりと桜の花が咲くのだろう。春に来てみたかったと思う。

内山永久寺跡に一人佇む。雨は完全にあがったが、曇り空が続く。明治の廃仏毀釈でなくなったかつての「西の日光」が、ここに何百年か前にはここにあったとは信じがたい。こんなに一人ぼっちになるのは久しぶりだ。鶯が鳴いているのが聞こえる。

背の低い梅か栗の木が植わっている。道は所々竹林の中を通ったり、舗装されていないぬかるみになったりしながら続いている。11時55分、夜都伎神社着。誰もいない。霧雨が降っていて、吐く息が白くなる。スマホのバッテリーも大分減ってきたので、ここで休憩することにする。お参りをした後、お堂のへりに座り、雨宿りをしながら今朝母が持たせてくれたおにぎりを頬張る。ついでにモバイルバッテリーでスマホの充電もする。おにぎりの具はツナだった。12時05分、また出発。少し太陽が出てきた。道の両脇に田んぼと畑が広がる。相変わらず人は全く歩いていない。

「山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱に立つ見ゆ」と書かれた石碑が立っている。夜都伎神社の鳥居を過ぎる。雨に濡れた農道の両脇に、一面枯草の畑とビニールハウスと、農家が使う小屋が立っているきりである。12時29分、竹之内環濠集落着。室町時代に戦乱から集落を守るため、集落の周囲に濠を築いたものが、現在では灌漑用に用いられているという地帯である。歴史的遺物を観光の目玉にしようと目立たせるのではなく、ちゃっかり生活の役に立てているところに農民魂を感じる。私の奈良が好きな理由はこういうところにある。

畑の真ん中に、急に菜の花畑が広がる。もう春がそこまで来ているのだ。吐く息は白いが、菜の花の黄色を見ると、寒さも感じなくなるようだ。ビニールハウスが連なるずっと奥に、大和の山が白く煙って立っている。

12時46分、波多子塚古墳着。一面黄色っぽい枯草と黒土と、白いビニールハウスで覆われた農地の上に、ポツンと緑が取り残された丘の姿で立っているのが古墳である。今の畑ができるよりずっと前から、古墳はここに存在していて、古墳を避けるように農地が作られ、この地域の人々は代々、古墳と隣り合った畑を耕してきたのだろう。部外者である私の目から見ると、古墳に隣接した畑を耕すというのはなんだか異様な感じがするが、古墳を文化的に受容している人々がいると考えると、私の知らなかった日本の新たな一面を見たような気がした。

12時50分、西山塚古墳着。石垣が組まれているが、この古墳も農家の裏山といった風情である。そのさりげなさがよい。

13時04分、衾田陵着。天皇の墓なので、宮内庁の管轄である。立派な柵と門があり、鳥居が立って、玉砂利が敷いてある。後から作られたストーリも多いが、日本という国は、今でも大和に端を発する伝統の上に成り立っている(という体裁を保った)国家なのである。

13時07分、大和神社御旅所着。大和の地主神である日本大國魂神を祀っているそうで、最古の御社とされている。建物は何もない。ただの立て札があるのみである。

少し行くと、柿本人麻呂の歌「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」がある。山に人を葬るということは、その人が山の一部となってその地に生き続けるということだったのだろう。今でも、墓があることを理由に便利な都会に移り住むのを拒む人もいる。私にはその感覚が理解できなかったのだが、今になって少しわかるようになった気がする。

13時48分、長岳寺着。拝観料を払って入る。受付のおばさんが事務的ではあるが丁寧に寺の中の説明をしてくれる。盗掘された石棺に掘られたという仏の像を見た後、お堂に入り一息つく。

14時21分、崇神天皇陵着。広い堀に囲まれた。緑の小高い丘がそれである。宮内庁による立て看板があり、門と鉄条網で立ち入り禁止になっている。鉄条網の奥に、真っ黒な入り口がぽっかりとあいていて、その奥に何かいるような不思議な感じがした。じっと息をひそめて立っていると、陵の中の木々がこすれあう音と鳥が鳴いたり羽ばたいたりする音だけが聞こえる。まったくの一人ぼっちである。近くの池では、霧雨でぼんやりと見える木々が緑色の水面に映り、しんとした気持ちになった。

14時56分、桜井市に入る。14時59分、纏向遺跡着。ただ田んぼが広がっているだけだが、初期ヤマト王権発祥の地、あるいは邪馬台国の候補地として有名な遺跡である。これだけ古墳群を目にしてくると、邪馬台国はここにあったに違いない、という理由のない確信が芽生えている。

15時00分、相撲神社着。小雨が降り出している。ここで昔、神と天皇に奉納する相撲が行われたことから、相撲発祥の地とされている。

15時29分、桧原神社着。雨が徐々にひどくなってきている。スマホの故障を恐れて、ほとんど写真がとれない。このあたりから、道は完全に林道になっている。ぬかるみがひどく、体が濡れたためか寒い。16時に宿にチェックインすることは不可能なので、宿に電話で連絡を入れる。

土砂降りの中、必死に歩いて三輪神社まで行き、予定を変更して三輪駅から電車に乗って桜井へ行く。

コンビニでカップラーメンとビール、シュガーパンを買い、17時前にとみやま館に入る。おばあさんが一人で対応。私のほかに客は一人だけらしい。宿帳に記入し、三階の305号室の鍵を渡される。建物全体が暗くて寒い。部屋に着くと、すぐに暖房を入れたが、なかなか温まらない。布団はもう敷いてある。とりあえず、ビールとカップラーメンと昼食の残りのおにぎりで夕食にする。夕食を食べ終わるころ、おばあさんがやってきて、みかんと大判焼きの差し入れをくれる。風呂はボイラーのスイッチを入れる必要があるから、6時くらいにしてくれという。承知すると、礼を言って帰っていった。部屋が寒い。風呂に入ると、初めはぬるい湯しか出なくて困る。湯を出しっぱなしにしていると、だんだん温かい湯が出てきて、体がやっと温まってくる。湯船の中で顔も頭も洗い、なんとか風呂を済ませる。風呂上がりに、母とLINE電話でしばらく会話をする。後はもうすることもないので、今日1日の備忘録をつけ、簡単な文章を1つ書いて、20時ごろに就寝。電気をつけっぱなしにした。

 

2日目
4時30分起床。まだ外は真っ暗だ。顔を洗い、前日に母が持たせてくれた菓子パンで朝ご飯を済ませる。

5時30分に宿のシャッターが開くと同時に、部屋の鍵をおばあさんに預け、宿を出る。

5時45分の電車で飛鳥に向かう。6時13分飛鳥駅着。まだ真っ暗である。

レンタサイクルも閉まっているから、キトラ古墳の方角へ歩き始める。6時20分ごろ、夜が明け始めた。あたり一面田んぼである。6時40分、於美阿志神社着。まだ暗い中に、灯篭がぼんやり灯っているのが幻想的で、ぞくっとする。この神社は、百済からの渡来人を祀っているそうで、やはり飛鳥は渡来人の文化が作ったんだな、と感じた。

キトラ古墳に向かって歩いていると、最近整備されたらしい飛鳥時代の農村を再現した人形が見えてぞっとした。牛や人間が段ボールや布のようなもので作られていて、そのクオリティは人形というより案山子である。

6時55分、キトラ古墳壁画体験館 四神の館着。まだ施設はあいていないので、写真だけとってキトラ古墳へ向かう。散歩中の女性に挨拶された。キトラ古墳の前を通り過ぎ、丘を越えて稲渕の方へ歩き始める。

40分ほど、歩道のない道路の坂道を上り続けると、飛鳥川に架かる橋にぶつかる。見下ろすと、ずっと田んぼが続いている。7時41分、稲渕の棚田着。田んぼがだんだんになってずっと下の方まで続いている。

飛鳥川のさらに上流へさかのぼっていく。関西大学の飛鳥文化研究所が見える。

7時57分、宇須多岐比売命神社着。急な石段を上がると、霧にぼんやりとかすんだお堂が見える。苔むした土の上は、水滴がついていて荷物が置けないので、しょったまま水を飲み、一息入れる。そのまま飛鳥川下流に下り、8時19分、南淵請安の墓着。もともと、飛鳥川の上流には漢人である南淵請安が住んでおり、優れた土木工事技術で地域の発展に貢献した。ここの地名の稲渕は、南淵が変化したものと言われている。日本の始まりと言われる明日香村の上流で、農業や建築に貢献したのはやはり渡来人であったのだ、と思うと感慨深い。日本人とは不思議なものだ。生粋の日本人なんてもともと存在せず、みんな大陸から渡ってきた人たちが、その後も大陸との交流を続けて文化を取り入れ、交換してきた歴史がある。

飛鳥川をさらに下っていくと、飛び石がある。8時31分に着いた時には、一人の男性がカメラを構え、何やら撮影していたので、遠慮して飛び石を渡ることはできなかった。橋の上に、綱が張ってある。悪疫が集落に入り込まないようにするために張られた、男綱だという。

さらに下流に下ると、両脇に田んぼが続き、その前にイノシシ除けの電気柵が設けられている。そのまま下り続け、8時52分に、阪田に着く。マラ石と呼ばれる不思議な石遺物を見た後、県道15号線沿いに歩いて9時05分、都塚古墳に着く。小高い丘のようだが、入り口が石ではっきり作られていて、石棺まで見える。

9時27分、石舞台古墳着。そろそろ足に痛みが出てきている。拝観料を払って近くまで行く。石舞台は小高く盛り上がった丘の上に立っていて、周りには堀がめぐらしてあり、周囲が見渡せる。有名な遺跡だけあって、ここは観光の一大拠点となっているようである。レンタサイクルやお土産どころの看板が多く見える。

石舞台古墳の前の休憩所で、シュガーパンの昼食をとる。頭の禿げた猫がどこからかやってきて、しきりに何かねだっていたが、何もあげるものはなかったので、無視で通してしまった。

9時44分、飛鳥周遊歩道を歩きだす。竹林を抜けて急な坂道を上がり、間違えて配水局の方へ来てしまう。仕方なく引き返し、さらに急な坂を上って10時08分、岡寺に着く。ここには、参拝客が数人いた。拝観料を払って中に入る。西国七番霊場とされており、かなり大きな寺である。大きな鐘をついて、合掌する。少し上ったところにある、三重宝塔は朱が美しい。空がだんだん晴れてきている。ここからは、明日香村が一望できる。高い建物が全然なく、畑と田んぼが家の間に広がっていて、山に囲まれた地味な町である。外国人なんて一人も見かけない。そこが、また良いところである。弘法大師を祀るお堂もある。明日は高野山に上るので、その縁もあってきちんと手を合わせる。

岡寺を出た後、飛鳥周遊歩道の道標を見失ってしまい、道に迷う。きちんとした地図も持っていないので、困ってしまった。道路にある散策図を見て何とか10時57分に、聖徳太子の生誕地に辿り着く。ただ石柱が立っているだけである。

すぐ隣の、橘寺に入る。拝観料を払うときに、受付のおばあさんに明日香村の地図をもらうことができた。聖徳太子を祀っている寺で、ここもやはり大きい。本堂に上がって、聖徳太子像を間近に見られたのはよかった。本堂の横には、二面石がある。人の顔の形をした不思議な石で、古代の人々が石に細工を施して何らかの信仰の対象にしていたものが、寺院に継承されて現在まで残っているというのが面白いと思った。鐘を見るとつきたくなってしまう。ここの鐘は軽く、あまり力を入れていないのに勢い余って2回鳴りそうになった。

地図が手に入ったので、ずいぶん心強くなった。11時40分、伝飛鳥板葺宮跡着。柱の位置が丸太で示されているだけで、ただの野原である。昔、この場所に天皇の宮があったことはほぼ確実らしい。

11時55分、酒船石着。大きな石の上に、不思議な形の溝が彫られている。円と直線と楕円が人工物であると主張している。

12時01分、万葉文化館着。入り口には、せんとくんが一人佇んでいる。高校2年生の修学旅行で、一度入ったことがあるので、今回は入館を見送った。万葉文化館の敷地内には、飛鳥池工房遺跡など複数の遺跡がある。かつて、この場所で瓦やら銭やらを製造していたらしい。

12時14分、飛鳥寺着。ここは明日香村の中心だからか、観光客が多い。釈迦如来像は、面長の朝鮮系の顔をしている。これまでは、日本人が大陸の影響を受けて作ったから朝鮮系の顔の仏像が多いのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。飛鳥時代には、仏像制作など高度な技術が必要な作業には、大陸から来た渡来人が従事していた。彼らは当然、自分たちの顔に似た、大陸と同じ形の仏像を作ったはずである。私が思っていた以上に、渡来人と日本人、大陸文化と日本文化の境界線は曖昧なものであった。

12時33分、蘇我入鹿首塚着。高野山の墓と同じ形の5段の石積でできている。

12時42分、飛鳥水落遺跡着。柱の位置のみ示してある。これは、水時計の施設であったらしい。雲が切れ、青空が出てきた。

農道を通って、雷の丘を目指す。13時03分、雷の丘着。大きな道路の交差点に面した小さな丘で、登る人はまずいなそうだ。高い木が生えているので、眺望はほとんどない。

甘樫丘の方へ戻る。途中で、石神遺跡を見る。ここは柱位置さえなく、石を敷き詰めたくぼみがあるだけである。

13時08分、あすか夢の楽市という道の駅に立ち寄る。おなかが減っていたので、何か買って食べようと思うが、めぼしいものがなく何も買わずに出る。

13時20分、甘樫丘のふもとに着く。腹が減って気持ち悪いくらいなので、近くの茶店どん兵衛を注文する。店主の老夫婦がそろってテレビを見ている。きちんとお茶まで入れてくれて、ゆっくり座って食事ができた。13時50分、甘樫丘を登り始める。甘樫丘の展望台からは、明日香村が一望できる。おじいさんと孫が散歩している。甘樫丘を下っていると、散歩中のおじいさんに話しかけられる。

「どこから来たん?」

「千葉からです」

「それは、ご苦労さん。」

ここでは、まったりと時間が流れているようだ。

亀石の方へ歩き始める。亀石の隣の無人販売所で、みかんを買って食べる。疲れた体に、酸味がちょうどよい。空はすっかり晴れて、この旅行が始まってから初めての晴れである。気温も高めで、心地よい。

14時29分、亀石着。

14時50分、天武天皇持統天皇陵着。大きく、立派な陵である。

14時55分、鬼の俎板着。少し離れたところに、鬼の雪隠もある。石室の一部であるから、かなり大きい。一応宮内庁が管理しているようだ。周りは一面田んぼと畑である。

15時06分、吉備姫王墓着。柵の向こう側に、猿石と呼ばれる人型の石像が4体ある。古代の信仰がどんなものであったか、想像するのも楽しい。

すぐ隣の欽明天皇陵も観る。駅が近いからか、町の音がする。

15時38分、高松塚壁画館着。壁画のレプリカのみの展示だが、見ごたえはある。盗掘の時に開けられた穴まで再現されているところが面白かった。高松塚古墳はお椀のような形をしている。

15時52分、文武天皇陵着。ここは静かである。じっとしていると、風の音と気がこすれる音、鳥の鳴き声しか聞こえない。

朝、キトラ古墳の壁画を見られなかったので、キトラ古墳の方へ向かおうとしたが、16時半までに入館しなければいけないそうで、今からでは間に合わないと判断し、断念。飛鳥駅へ向かう。

16時18分、飛鳥駅着。16時26分の電車で、桜井の宿へ帰る。

桜井駅で、夕食用ののり弁とビール、翌日の朝食用のパンとつまみのスナック菓子を買い、宿に戻る。おばあさんが、今日は生チョコ大福を差し入れしてくれた。翌日も早く出ることを伝えると、今支払いをしてくれという。支払いを済ませ、部屋へ上がる。

17時18分、のり弁の夕食。18時頃から入浴。部屋にも慣れてきた。入浴後、今日一日の散策ルートを地図で辿って復習する。後はすることもないので、20時頃に就寝。今日は電気を消して真っ暗にして眠った。


3日目

4時30分起床。顔を洗い、菓子パンで朝食。昨日と同じく、5時30分にシャッターがあくと同時に宿を出る。5時52分発の桜井線に乗るはずが、間違ってローカル線の駅に入ってしまっていたらしい。待合室でたまたま話をしたおばあさんが、間違いに気づいてくれ、隣のJR線のホームまで案内してくれる。この旅行では、本当にいろんな人に助けられている。世の中には、意外といい人も多いのかもしれない。

6時06分に高田で乗り換える。橋本で、高野山線に乗り換える。夜がすっかり明けている。

7時36分、九度山駅着。町石道のスタート地点である慈尊院まで、道路を1.6キロほど歩く。ここの人たちはみんな礼儀正しい。すれ違うと、小学生も町の人も、みんな挨拶をしてくれる。

8時02分、慈尊院着。町石道を無事に歩ききれるよう、きちんとお参りをする。丹生神社へ向かう石段の途中から、180町目の町石が始まる。初めは物珍しかったから、いちいち町石の写真を撮っていたが、道が険しくなるにつれ、余裕がなくなって10町ごとにしか撮らなくなった。

道路を渡り、竹林を抜けると、ミカン畑が広がってくる。クマ出没注意の看板が出ている。8時32分、ミカン畑の間の道が険しすぎて、途中でへたり込んでしまった。まだ170町ぐらいある。昨日と一昨日の疲れが足に溜まっている。水を買い忘れ、水が足りなくなる恐れもあって、気が気ではない。振り返ると、九度山の町がはるか下に見える。かなり急に上ってきたようだ。空は今日も曇っている。

息が上がって苦しいとき、道端にミカンの無人販売所があった。大きなみかんがたくさん入って100円である。棚の一番下に、腐りかかったミカンなどをサービス品として無料で並べている。食べられそうなものを一つ選んで食べると、のどが渇いていたせいか、体に染み渡るようである。ミカン一つで、ずいぶん元気が出た。

8時53分、大門まで17キロという道標がある。道は山の中に入り、少し平坦になって息が楽になった。人は一人も通らない。

9時00分、銭壺石着。この町石道も、多くの人が工事してやっとできたというから、すごい。歩くのもやっとなのに、今もきちんと整備している人がいると思うと、頭が下がる。

9時21分、一里塚着。この辺はなだらかなので、比較的速く進めた。

9時36分、六本杉着。

10時00分、二ツ鳥居着。鳥居の上に、石やシカの角が積んであった。この辺りは天野というところらしい。山の中なのでよくわからない。

10時09分、白蛇の岩着。岩に対する信仰は、山岳信仰の基本なのかもしれない。

10時12分、右側にゴルフ場が見えてきた。

10時23分、トイレ休憩、トイレの水を汲んで水分補給。これで水の心配はなくなった。

10時27分、110町石着。10時30分、二里塚着。10時41分、100町石着。

10時49分、道をふさぐほどの倒木がある。雨が降っていたら危なかった。

10時59分、80町石着。

11時24分、3里塚着。11時27分、70町石着。

11時31分、歩きながらあんパンの昼食。気温が低く、手がかじかんでいる。立ち止まると凍えそうだ。

11時44分、矢立着。大きな道路を横断する。高野山まであと7.5キロの表示。大門まで5.5キロの表示。

11時56分、袈裟掛石着。清浄結界らしい。女人結界でもあると思う。ここが一つの山場だ。

12時00分、押上石着。

12時24分、再び道路を横断する。疲労がたまっている。苦しい。

12時38分、道にまた倒木がある。倒れた木の下を潜り抜けるようにして進む。

12時44分、30町石着。12時47分、鏡石着。

13時00分、20町石着。道は比較的平坦である。

13時15分、木の陰に隠れた11町石発見。ここから急な上り坂になっている。上の方に、道路が見えてくる。

13時25分、大門着。電光掲示板に気温は3度と表示されている。観光客らしい関西弁の女性が数人、大門の前で休んでいる。一息つくと、大汗をかいたあとの体が冷えてきて、立ち止まるどころではない。疲れた体を引きずるようにして、とりあえず高野山の町の中へ入っていくことにする。大門の向こう側に、6町石を見つける。はるばるよく歩いてきたものだ。1人きりで延々と山道を登ってきたら、急に町中に出たようでキツネにつままれたような気持がしている。

高野山の地図も持っていないので、勝手がわからない。道を左側に折れ、トンネルを抜けて、専修学院の方へ来たものの、寺に勝手に入っていいのかわからない。とにかく寒い。全身が震えるようである。

朱の塔が目に入ったので、そちらに引き寄せられていく。高野山のシンボル、伽藍であった。13時48分である。金堂の下には、雪がまだ残っている。ちょうど、黄色い袈裟をつけたお坊さんたちがお経をあげているところだった。大乗伽藍に入ってみると、金色の大きな仏像が安置されている。お香の匂いが強く、東南アジアの寺院に来たかのように感じる。とにかく寒い。お堂の中でも息が白くなる。

西門から外に出て、近くのコンビニでカップラーメンとファミチキを買い、昼食にする。とにかく温まりたい一心であるが、中にイートインコーナーはなく、仕方なく外のベンチで食べる。それでも、一息つくことができた。

14時31分、町石1番石を見つける。これが町石道の終着点と考えると、感慨深い。6時間歩きとおしたことで自信がわいてくる。

14時51分、金剛峯寺着。中を拝観できるとは知らなかったため、外からお参りしただけで出る。

高野山の観光案内所に入り、地図をもらう。建物の中は温かく、ようやく体を温めることができた。

15時04分、霊宝館着。拝観料を納め、中に入る。中は冷蔵庫並みの寒さで、じっと立って拝観することはとてもできない。弘法大師の像や、様々な仏像、曼荼羅などをほとんど無人の館内で独り占めして堪能することができた。館内に暖房は全くなく、すっかり凍えてしまった。

16時00分、宿泊予定の常喜院という宿坊に入る。靴箱に宿泊者の名前が貼ってあったが、どうやら日本人は私一人のようだ。他の宿泊者はみんな西洋人か中国人である。先に支払いを済ませ、館内の案内を受けた後、部屋に入る。炬燵が据えられ、有難いことに暖房が効いている。炬燵のほかに、エアコンとファンヒーターまである。とりあえず汗で濡れたシャツを着替え、ウィンドブレーカーの上からスキーウェアの上を着ることにする。炬燵で体を温めながら、今後の予定を考える。宿の人から案内のあった、恵光院主催の奥之院ナイトツアーに参加することにする。クレジットカード払いの申し込みをし、あとは17時半からの夕食を待つばかり。宿の注意書きや食事のメニューもすべて英語で書かれていて、ここが外国であるかのような錯覚を起こす。Wi-Fiにはなかなか接続できない。

17時30分、部屋に夕食が運ばれてくる。膳に載った豪華な精進料理である。一人での食事は早く済む。準備を整えて、18時15分に外に出る。夜の高野山は人もまばらで、多くの店はシャッターを下ろしている。歩いているのは、外国人観光客くらいだ。恵光院に向かう途中で、売店により、今晩飲むビールと水を買う。19時00分、恵光院着。集合時間の19時半までまだ30分もある。立ち止まると寒いので、その辺をうろうろしながら時間をつぶす。

集合時間になっていってみると、集まっているのはほとんど外国人である。日本人らしき人は年配の男性1人だけ。この男性が話しかけてきた。

「外国の人が多いですね。」

「ええ、驚きました。」

「日本人のツアーに、高校生くらいの息子さんと、お母さんが参加されるみたいですよ。阿字観体験のときにいらっしゃったから。」

「よかった、安心しました。」

「もう奥之院は行かれたんですか。」

「いや、まだです。」

「私は今朝行きましたよ。弘法大師様にご飯をお供えしているのが見られました。」

「何時ごろですか」

「10時ごろです。」

「よかった、じゃあ明日見られますね。テレビでしか見たことないから。」

「やってましたよね、ブラタモリで。」

我ながら受け身の答えしかしないそっけない会話である。そうこうしているうちに、噂していた親子がやってきた。もう1人、三十代くらいの女性が参加した。こうして、日本人のツアーは合計5名となった。点呼がとられ、徒歩で奥之院へ向かう。ガイド役のお坊さんは、年齢はわからないが、とても若そうに見えた。とてもしっかりとした口調で、はきはきと話す人である。

一の橋を渡る前に、合掌一礼を求められる。弘法大師がここまで迎えに来てくださっているからだという。暗くて足元は見にくいが、お坊さんがライトで照らしてくれる。道の両脇には灯篭がずらっと並んで、とてもきれいである。左側の灯篭は窓が月の形をしており、それぞれのかけ方が少しずつ違うので、光の漏れ方がまちまちである。それに対し、右側の灯篭は、窓が太陽を表しているそうで、常に真ん丸の光が漏れている。月の満ち欠けは、人間の心の動きを表すという。

ここにある墓は、すべて独特の形をしている。5段の石が積み重ねられ、下から地、水、火、風、空を表し、これに目には見えない心(識大)を加えた6つの要素で、この宇宙は成り立っていると考えられる。日本の歴史の名だたる有名人の墓が、続々と並んでいる様にはやはり驚く。後から「日本の歴史オールスターの墓」を築いたのではなく、長く続いた信仰の賜物として、徐々に歴史上の偉人の墓が信仰に基づいて建てられたという事実が、無宗教を名乗る現代日本人の目に、奇異に映るのである。

明智光秀の墓は、主君を裏切った報いとして、何度直しても、同じ個所に亀裂が入り壊れてしまうという伝説があるそうだ。

中の橋を渡り、汗かき地蔵と姿見の井戸を見た後、水向地蔵に水をかけて合掌し、御廟の橋を渡って御廟へ向かう。御廟の橋の向こう側は、脱帽の上、一切撮影禁止である。弘法大師がいまだに瞑想を続けていらっしゃるといわれ、その気を散らすことがあってはならないからである。御廟の前で般若心経をあげ、合掌一礼して引き返す。

帰りは、中の橋を渡らずに新しい企業の墓が並ぶ道を通った。キリンビール日産自動車などの慰霊塔が目立つ。中の橋駐車場のバス停から、バスに乗って宿に向かう。他の観光客はみんな恵光院の宿泊客だから、私一人だけ先手院橋までガイドのお坊さんに送ってもらう。そこからまっすぐ歩いて宿に戻った。

宿に着くとすぐに風呂に入った。大浴場で21時半までなので、急ぐ必要があるからだ。他に2人入浴していた。

風呂から上がると、部屋に帰ってビールを飲む。もう21時26分。明日は6時から朝の勤行があるので、その前に近くを散策しておきたい。早めに寝るべきである。

歯を磨くために廊下へ出ると、もう電気が消えていた。歯を磨いて、22時30分ごろに就寝した。明かりをすべて消して、真っ暗にして眠った。


4日目

5時00分起床。顔を洗い、廊下の大黒天をお祀りしている部屋をのぞくと、燈明の明かりだけがともっており、暗くて何も見えなかった。

着替えて勤行が始まるのを待つ。

6時00分、外国人観光客たちが朝の勤行に集まってきた。お堂の中はものすごく寒い。石油ストーブがたかれている。初めは正座していたが、足がしびれてきてやめてしまった。お堂の中は天井一面に燈明がつるされ、仏像は金色で、柱は朱色であり、とても色鮮やかである。寒さでぴんと張り詰めた空気とお香の匂いが、すっかり高野山のイメージとして私の頭の中に定着し始めた。

はじめに袈裟を着た女性が御詠歌のような節回しで歌い、お坊さんと弟子が二人でお経をあげていた。ひと段落してから焼香のやり方が示された案内書きが回され、客が一人ずつ前に出て焼香をする機会が設けられた。

その後、お坊さんの法話となるが、なんと全部英語だった。宿泊客がほとんど外国人だから無理もないが、日本人としては少し興ざめである。商売っ気のなかった飛鳥から一転、キャッシュレス化の進んだ英語が共通語の異国に迷い込んでしまったかのような気持ちである。もっと英語を勉強しなさいという弘法大師のメッセージかもしれない。現在進行形で信仰が息づく街として、観光業に生きる高野山のたくましさを見た気がした。

6時45分ごろ、朝の勤行が終わった後に、朝食までの時間、外の散策に出かける。昨日までの疲れが嘘のように吹き飛んで、体が軽い。常喜院の庭や大師教会を見た後に、大乗伽藍の方へ行った。その時、朝日がさっと差してきて、大乗伽藍の朱色が映えた。思わずそちらの方向に走り出してしまったほど美しかった。昨日見逃した三鈷の松も見ることができた。

7時15分、宿に戻り、朝食まで身の回りの片づけをする。

7時30分、広間で他の客と一緒に朝食をとる。座敷に入ってみると、私が一番上座に通された。次席は中国人である。おそらく、上座の意味を理解しそうなものから順に上座に着かせるのが無難と考えたのだろう。膳に載った一汁三菜と漬物と海苔が並べられ、純和食であった。

15分ほどで食事を終え、部屋に戻って歯磨きをしようとすると、宿の人が布団を上げに来た。すぐに荷造りをして、荷物を背負ったまま常喜院の庭とお堂を最後に見物する。他の外国人観光客は、まだ朝食をとっているらしい。和食がよほど物珍しかったものと見える。

8時00分、宿に鍵を返却し、チェックアウトする。朝一番の人が少ない時間帯に、奥之院をじっくり見たいから、早めに出発する。一直線に奥之院を目指す。土産物屋などは、まだシャッターを下ろしている。

8時17分、一の橋着。まだ誰もいない。合掌一礼して、橋を渡る。夜の時とは違い、一つ一つの墓や碑銘がはっきりと見える。ゆっくりと時間をかけて、一つ一つの墓を見て、写真を撮る。一緒に来られなかった両親にもこの景色を見てもらいたいという気持ちだった。

8時44分、中の橋着。汗かき地蔵に参拝し、姿見の井戸に顔を映してみる。しっかり顔が映っていたから、あと3年は無事に生きられそうだ。

どこからかころころころ、というねじを巻くような音がする。もののけ姫に出てくるこだまの声のようだ。ムササビの声なのではないかと思う。

御供所でトイレに行く。

9時15分、水向地蔵に水をかけ、御廟の橋の前で合掌一礼してから橋を渡る。歴代天皇陵に拝礼してから、灯籠堂地下に入る。一面の灯籠が釣り下がり、幻想的な光景である。一つ一つ小さく区切られた区画があり、何をするかは知らないが、弘法大師と二人で瞑想することができるようになっているみたいである。

弘法大師御廟に参拝する。お坊さんが掃除などをしていて立ち入りにくい雰囲気を感じる。

灯籠堂に入り、一面の灯籠に囲まれながら金色の像に拝礼し、焼香していると、なんだか現実から遠く離れた異世界に来てしまったような気がする。全てが夢の中で起きた出来事のようにぼんやりして、お香の匂いが心地よく感じられるまでになってくる。

9時51分、御廟の橋を渡り、無縁塚着。小さな石塔がピラミッド状に積み重ねられている。

10時01分、英霊殿着。朱色の建物が目を引く。

10時05分、UCCの墓着。日産自動車、ヤクルト、アデランス、日本しろあり対策協会の石塔を見る。

10時半からの弘法大師への食事の御供を見るため、急いで御廟の橋の前に戻る。御供所から出てきたお坊さんたちが味見地蔵の前でお経をあげてから、御廟の橋を渡って木の箱を運んでいくのが見られた。ビデオで撮影しようとしたが、うまくとれておらず、これも撮影するなという弘法大師の思し召しかとも思った。

10時50分、明智光秀の墓着。見ると、本当に石塔の真ん中の丸い部分に亀裂が入っている。

前方にずっと中国人らしき女性がいる。写真撮影を2度頼まれて面倒だったので、彼女をやり過ごすため、ちょっと脇道に入る。

11時09分、苅萱堂着。硝子戸の向こうにお坊さんが見えたので、賽銭をしないと悪いと思い、五円を入れる。しばらく中をうろついてみていたら、お坊さんが急に硝子戸をあけて、

御朱印ですか?」

と聞いてきた。

「違います。ちょっと見ているだけです。」

と答えると、

「どこから来たの?」と聞かれた。私は関西圏に来たら、自分の母語に近い関西アクセントで話すことにしているが、このお坊さんはまったく訛りがなかったので、どっちで話していいのかわからなくなって、一瞬こんがらがってしまった。

「千葉です。」

と答えると、

「俺も千葉から来たんだ。柏の方だよ。家もそこにある。」

というから驚いた。流山で警察官をやっていて、定年退職後に高野山でお坊さんになったらしい。生まれは墨田区とかで、東京弁という感じの早口で気さくな話し方かビートたけしみたいだった。

なぜかそのお坊さんと仕事のことや政治のことをいろいろ話すことになり、お坊さんは

「使われているうちが華だから。」

と何度も言った。なんでも、警察官時代は飲み会の準備やら町内会とのつながりの維持やらでよく使われたらしい。その時に、自分の上司に言われた言葉だそうだ。私自身にも置き換えられる、いい言葉だと思った。

お坊さんは話し好きで、あったかい缶コーヒーをくれた代わりに、ものすごく話を長く引き伸ばした。やっと解放されたのは、12時半くらいである。

「それじゃ、頑張れよ。今度は家族もつれて、また来いよ。」

という言葉を背に、奥之院とは反対側に歩き出す。道の途中で、酒屋を見つけたので、旅の土産に高野山という九合瓶を買う。背負ってみるとかなり重い。郵便局で郵送してもらうことも考えなければならない。

今度は金剛三昧院の方へ歩き出す。少し道を外れて坂道を登っていく。12時51分金剛三昧院着。観光客は誰もいない。国宝の多重塔と、ご神木のような杉の木をみて、引き返す。

そのまま坂を下り、13時19分金剛峯寺着。昨日は中に入らなかったので、拝観料を払って中に入る。中はとても広く、廊下や欄間、襖絵が美しい。是非とも入っておくべきだった。ここには観光客の姿も多い。大広間の入り口でお茶とお菓子をもらい、部屋に入ると誰もいない。ものすごく広い部屋にたった一人で入ってお茶を飲むと、どこに座っていいのかわからず、居心地が悪い。弘法大師の掛け軸や、曼荼羅が壁にかかっていて、ゆっくり見ることができたのはよかった。廊下から庭を眺めると、広い石庭の石の周りの砂に、きれいな円が描かれていて、日本の美という感じがする。

13時46分、大師教会着。拝観料などがわからず受付の女性に聞くと、拝観は無料で灌頂に500円かかるという。拝観だけすることにして、奥の大講堂へ進む。誰もいない講堂の中心に、金色の装飾品が置かれ、奥に弘法大師の像が安置されている。天井からは、灯籠がつられている。部屋の四方の壁には、弘法大師の一生を描いた絵が順番に掛けられ、じっくり見ると勉強になった。

14時03分、勧学院の横を通り過ぎる。14時05分、最後の見納めの西門を通り、金堂の奥の御社に行く。孔雀堂の中などを覗き、三鈷の松の葉を拾うと、葉が三つに分かれていた。14時21分、大乗伽藍の横のベンチに座り、スティックパンの昼食をとる。下から見上げる伽藍もやはり美しい。人が少ないから、まったく独り占め出来て本当に贅沢である。

14時37分、最後に昨日入らなかった金堂の中に入ってみる。青い像などがあり、やはり東南アジアの仏教寺院と似ていると感じる。

14時42分、大門へ向かう途中で、三町石を見つける。

14時47分、大門着。昨日とは違い、電光掲示板は気温7.7度を示している。大門もこれで見納めだ。名残惜しさを感じる。大門の向こう側の町石道の出口を少し見てから、大門南駐車場に向かって歩き始める。

15時00分、大門南駐車場着。トイレを済ませ、橋本駅行きのバスに乗る。15時15分発車。

16時18分、橋本駅着。難波駅御堂筋線に乗り換え、新大阪へ向かう。

新大阪で切符を買い間違え焦るが、何とか18時13分発の新幹線に乗ることができた。乗車の直前でのり弁と赤福とビールを買い、乗車。サラリーマンに両脇を挟まれる最悪の座席だが、構わず弁当を広げて食べた。車内が熱く、気分が悪い。のり弁は少し残してしまった。

22時過ぎに帰宅。みんな起きて待っていてくれた。

これにて旅は終了である。